第30章『尊重というまなざし——共通理解は、語り合う時間から育つ』

「“尊重する”って、どういうことなんでしょうか」
新人の理佳が、ケア記録の研修中にぽつりとつぶやいた。
沙耶はその問いに、すぐには答えられなかった。
制度には“尊重”という言葉が何度も出てくる。
でも、それが“現場の実感”として共有されているかは、別の話だった。

法人では、「利用者の尊厳を守る」ことが理念として掲げられていた。
ケア方針にも「利用者の意思を尊重し、自立を支援する」と明記されている。
しかし、職員間でその言葉が“同じ意味”で使われているかは不明瞭だった。

沙耶は「尊重の共通理解プロジェクト」を立ち上げた。
目的は、“尊重”という言葉を、職員それぞれのケアの中で言語化し、
共有することで、チームとしてのまなざしを揃えること。

まず始めたのは、「尊重の瞬間を語る会」。
職員が「自分が利用者を尊重できたと思う場面」を語り合う時間。
ある職員はこう語った。
「〇〇さんが“今日はお風呂入りたくない”と言ったとき、
無理に促さず、“じゃあ足湯だけにしましょうか”と提案した。
そのとき、〇〇さんが笑ってくれた」

別の職員はこう語った。
「認知症の利用者が“帰りたい”と言ったとき、
“ここがあなたの部屋ですよ”と否定するのではなく、
“帰りたい気持ち、どんなときに強くなりますか?”と聞いてみた。
その会話が、安心につながった気がした」

沙耶はそれらの語りをまとめ、「尊重の語録」として掲示板に貼り出した。
それは、制度の理念を“現場の言葉”に訳す試みだった。

さらに、ケア記録の様式にも「尊重の視点」欄を追加。
「このケアにおいて、利用者の意思・感情・価値観にどう配慮したか」を記述する欄。
記録が“業務の履歴”から、“まなざしの記録”へと変わっていった。

月例会議では、「尊重の語り」を共有する時間が設けられ、
職員同士が「その対応、すごくいいですね」「私も試してみたい」と語り合う場面が増えた。

評価項目【28 Ⅲ-1-(1)-①――「利用者を尊重した福祉サービス提供について共通の理解をもつための取組を行っている」。】
それは、「“理念があるか”ではなく、“その理念が現場で語られているか”が問われる。」

沙耶は記録の余白にこう書いた。
「今日、理佳が“尊重って、相手の気持ちを待つことなんですね”と言った。
その一言が、共通理解の芽だと思う」

尊重とは、制度の言葉ではなく、
日々のケアの中で育つ“まなざしの質”。
そしてその質を、職員同士で語り合うことで、
チームとしての“ケアの哲学”が育っていく。

その哲学がある限り、福祉サービスは“業務”ではなく、
“人と人との関係性”として息づいていくのだ。

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